第1章
臨安市――茜ヶ丘、水野家。
今日は小正月。町じゅうが提灯で彩られ、普段はひんやりと静まり返っている水野家にも、ほんの少しだけ人の気配が差し込んでいた。
そのとき。
辺りの静寂を切り裂くような悲鳴が響いた。
「きゃあ――!」
ドン、ドン、ドンッ――!
大きなお腹の女が、階段を転げ落ちてきた。
「――っ!」
一斉にどよめきが起き、皆が駆け寄る。
水野源が青ざめて叫ぶ。
「心愛! 大丈夫か!」
女の脚の間から、真っ赤な血が流れ出している。顔は紙のように白く、恐怖に引きつっていた。
「源兄さん……痛い……私たちの赤ちゃん……お願い、赤ちゃんを……!」
水野麻子も取り乱し、声を張り上げる。
「どういうこと!?」
水野心愛は涙をこぼしながら、階段の上を指さした。
皆が一斉に見上げると――最上段に、三歳半ほどの小さな女の子が立っていた。視線が集まった瞬間、女の子は抱えていたウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
水野篤志が怒鳴りつけた。
「お前が心愛を突き落としたのか!」
小さな子は唇を結び、震える声で言う。
「ちがう……わたしじゃない……」
水野心愛は泣きながらも、かばうように言った。
「ち、違います……お義父さん、紬のせいじゃありません……あの子はまだ小さくて、何も分からないんです……わざとじゃ……」
その一言が、紬の“罪”を確定させた。
水野源の目が氷のように冷える。問いただすことすらせず、言い放った。
「誰か! あいつを屋根裏部屋に閉じ込めろ。俺が戻ったら、きっちり躾け直してやる!」
心愛は慌ただしく病院へ運ばれていった。
紬は腕を掴まれ、二階へ引きずられる。片方の靴が途中で脱げ落ちたが、泣きも喚きもしない。小さな顔にあるのは、意地だけだった。
屋根裏部屋には灯りも暖房もない。真っ暗で、骨まで冷える。
窓が、ばたん、と鳴った。
まるで、いつ怪物が飛び込んできてもおかしくない――そんな音。
紬はウサギを抱きしめ、隅で小さく丸くなる。
寒い……。
でも、ほんとうに押してないのに。
どうして、誰も信じてくれないの。
外はまさに、春の陽気が続いたかと思えば、また冬の寒さがぶり返すという言葉どおりの吹雪だった。ひゅうひゅうと唸る風が窓の隙間から入り込み、何度も何度も、薄い身体に雪の冷たさを叩きつける。
やがて、一日と一夜が過ぎた。
その間、誰も紬を見に来ない。前日、心愛に罰として食事を抜かれていたことも、誰も知らない。意識はもう朦朧としていた。
水野篤志は言い放っていた。
――謝らないなら、出すな。
「ママ……」
紫色に凍えた唇が震える。紬は目を閉じ、かすれ声で呟いた。
「ママ……紬、わるくない……紬、あやまらない……」
ママは一年前に病気で死んだ。
ママがいなくなって、パパはすぐに“おばさん”を連れてきた。ほどなくして、そのおばさんのお腹には赤ちゃんができた。
そのおばさんには、顔が二つあった。
人がいるときは優しいのに、誰もいないときは悪魔みたいに変わる。
「ママ……」
紬はぬいぐるみのウサギの耳をぎゅっと掴み――そのまま、意識を手放した。
どれほど経ったのか。
バンッ、と扉が乱暴に開いた。
水野源が怒りに染まった顔で入ってくる。昏睡している紬を乱暴に掴み上げ、そのまま階段を引きずり下ろし――
屋敷の外、雪の上へ放り投げた。
紬は氷の刺激にびくりと震え、ようやく薄く目を開く。
「パパ……おなか、すいた……」
本能のままに漏れた言葉。
水野源は冷笑した。
「心愛の腹の中の弟を殺しておいて、よく腹が減ったなんて言えるな。俺、水野源が、どうしてお前みたいな薄情な娘を持ったんだ!」
凍えきった紬の瞳は、もう光を失っていた。言葉も出ない。
その姿が、水野源の癇に障る。
悪いことをしておいて、まだ意地を張る? 誰に見せつけてるつもりだ。
こんな小さな年で、心がこんなに腐ってるなんて――。
「子を教えぬは父の罪だ! 弟を殺せるなら、将来は人も殺すだろう。今日、叩き直さなきゃ俺は父親じゃない!」
そう言って周囲を見回し、隅に立てかけてあった箒を掴む。柄を踏み折り、二本指ほどの太さの棒にした。
バシンッ!
棒が紬の身体に叩きつけられ、紬は悲鳴を上げた。
「謝るのか、謝らないのか!」
「ちがう……ほんとに……ちがう……!」
唇を噛み、涙も出さずに耐える。小さな顔に、意地だけが張りついている。
水野源はさらに激昂した。
「お前じゃないなら、心愛が自分で転んだっていうのか! 妊娠六か月だぞ! 転んで何の得がある!」
病院での光景が脳裏をよぎる。
心愛は大出血し、医師は二度も危篤宣告を出した。それでも彼女は、命の瀬戸際でこう言ったのだ。
――紬を責めないで。あの子は小さくて、母親もいなくて可哀想で……弟が生まれたら愛されなくなるのが怖かっただけ。わざとじゃないの。
その“健気さ”が、逆に水野源の怒りを煽った。
「まだ言い訳するか! まだ言い訳するか!」
言葉のたびに、棒が落ちる。
バシン、バシン、バシン――。
殴りつける手が止まらない。いつの間にかポケットから携帯が落ちていることにも気づかず、紬が雪の上で崩れ落ちるまで叩き続けた。
ようやく手を止め、吐き捨てる。
「そこで跪いてろ。おばさんが退院するまで、立つな!」
水野源はネクタイを乱暴に引き、棒を投げ捨てて去っていった。
会社には大穴が空き、頭を下げて回っても誰にも会えず、半月も空回り。
そのうえ今日、心愛が階段から落ち、六か月の息子は流産――水野家が待ち望んだ跡取りも消えた。
立て続けの不幸で、頭は焼けつきそうだった。
だから、その全部を――小さな紬にぶつけた。
紬のウサギは、もうボロボロだった。
起き上がろうとしても、ぱたん、と雪に伏す。
――わたし、死んじゃうのかな。
死んだら、ママに会えるのかな。
そのとき、耳元で、ぼやけた声がした。
【紬ちゃん、早く斗真おじさんに電話しなさい!】
【斗真おじさんは神崎斗真。番号は080xxxxx……】
「……でんわ……」
紬は必死に目を開ける。雪の上に、黒い携帯が落ちていた。
生きたい。
その本能だけで、彼女は這うように近づく。
「080……」
震える指は言うことをきかない。どれほど時間がかかったのか分からない。
それでも、ようやく発信できた――。
同じ頃。
清原市の別荘。
神崎吉弥は朝から恒例の説教を始めていた。
「また一年だ。斗真、お前は今年こそ医長の試験に受かると言ったな!?」
神崎家の八兄弟は、また始まったとばかりに黙って聞き流していた。
神崎斗真は鼻を擦った。
すると吉弥は急に声色を変え、鋭く問う。
「――それと。四年探して、まだ妹は見つからんのか?」
空気が凍った。
八兄弟の顔色が変わり、誰も言葉を出せない。さっきまで右から左だった兄たちの目に、陰りが浮かぶ。
妹の神崎実里は幼い頃から急性前骨髄球性白血病と診断され、輸血、感染対策、骨髄移植……。
神崎家は二十年、掌の上の宝のように守ってきた。それでも病状は悪化し、記憶にまで影響が出始めていた。
四年前――突然、行方不明になった。
神崎斗真は県立がんセンターの主治医で、神崎実里の治療を最初から最後まで担当していた。
あの日、重症患者の救命に入った、たった一度の隙――実里は消えた。
それから四年。
自分を責める思いと後悔が、彼を蝕み続けた。天才と呼ばれる医学の才があっても、前へ進めない。
神崎家に娘は神崎実里ただ一人。
娘を失ってから、神崎聖子は寝込み、神崎吉弥の気性もどんどん荒くなった。
家族全員の心に、消えない重荷がのしかかっていた。息ができないほど重い。
長男・神崎雅志――神崎グループの社長は働き詰めで身体を壊し、毎日薬が欠かせない。
次男・神崎颯介――S航空のトップ機長は心理審査で不合格となり、四年も休職中。
三男は――
書斎は沈黙に沈んだ。
そのとき。
神崎斗真の携帯が、突然鳴った。
